昭和51年10月23日 月次祭
お祭前の前講を今日末永先生が承っておりました。信心に感動がなかったらもう信心の値打ちはないという意味の事を、自分の信心からお話をしておったようであります。今日はある偉い先生の書かれたあのう御本を、今日送って参りましたその中にも、「最近の金光教には本部自体に宗教的感動がなくなった。どうした訳か」と言う様な事が書かれておりました。まさしく信心に感動がなかったら本当に値打ちはない。
信心の喜びがどこからこの様に沸き起こってくるだろうかと、思うほどしの感動が無しには、信心は生きた信心とは言えません。自分が喜ぼう自分が感動しようとして感動するのではない。あのう感動というのは、やはり天地の親神様の感動がこちらへ伝わって来るものであります。ですから神様にお喜び頂けるような心がけ、神様の喜んで頂くような信心がなされない限り、感動は言わば許されない訳です。許されなければ感動はない訳ですだから、感動しようと思うて感動するものではありません。
信心に感動がなかったら、信心の値打ちはないと。そんならその感動は、どういうおかげを呼ぶかと言うと、先ほども末永先生が申しておりましたように、お供え物一つ洗わせて頂くでもね感動一杯で。それをお供えなさった方の、真心が二倍にも三倍にも、輪を広げていくような、おかげを頂かせて下さいと言う、祈り願いを持っておる。薄暗くなったから光が要るなぁと思った、途端に光がついたと言った様な、まぁおかげにも繋がってくる訳であります。
今日はあの偶々お二人の方の、今日は沢山お礼の手紙が来ております中に、山口から浅野さんという方が最近お参りになります。月一回ですけれども、毎朝お商売をなさっておられますから朝の二口、言うなら朝の初売りをお供えと思うて、月に一回のお参りにお供えをすると言う様な、なかなか変わった熱心な信心をなさいます。その方から今度の御大祭を初めて拝ませて頂いてと言うお礼の手紙が参りました。
それから四国の川上さん。久留米の井上さんの御姉妹になりますが、やはり前夜から初めて合楽に御神縁を頂いて、お願いをしおかげを頂いて来ておるけれども、御大祭に合わせて頂いたのは、今度が初めてと言う感動をそのまま文章につづって、手紙をよこしておられます。どなたにかひとつちょっと読んで頂きましょう。しかもその感動がどのような事に響いていくか。
末永先生は居らんかね。はい末永先生。なら誰か声の良か人に一つ読んでもらおう。なら直子さんあんたでもよかてい。ちょっと急いで読んでごらん。声の良い人が読んでごらんて。あんたでもよかたいなら順子さんあんた。急いで読まんの時間がなかけい。ここで読みなさい。「耳納の連山がくっきりと、秋空をいやが上にも晴れ上がり、あたかも今日の御大祭を、天地の神様が心から、お喜び現しておられるかのように、清々しい秋晴れの御大祭でした。
合楽教会御大祭に私は初めて参拝させて頂きましたが、身の引き締まるような訳の分からぬ涙があふれて、何度も目頭を押さえました。そのご立派さ素晴らしさに驚きの目を見張り、感動の震えを押さえ、息を殺して聞き入りました。親先生の熱のこもった御理解に、そのお徳の重さ受け方の立派さに、流石合楽の親先生だなぁと感じ入りました。物事何でもあのような受取りをさせて頂くなら、成程人を責める事も争う事もない。本当に日本一の親先生とは決して過言ではないと思います。
御本部に何年月参り致しましても、御理解の一つも頂けませず、当地の教会参拝を致さぬ勝手な私は、一言一言に心を打たれました。またお供え物の豪華さ見事さに圧倒され、そして吉備舞の素晴らしかった事。あの吉備舞は二度と見る事の出来ない程の出来映えでした。始めから終わりまで一分の隙もなく、長い舞を最後の最後まで幕の中に姿を消されるまで気を抜かず、とても玄人でも顔負けする程に素晴らしい舞子さんでした。
私は見ている中に、「これは八ミリに収めておくべきだなぁ。裏で御用の方はご覧になれないのに本当に惜しい事だ」と一人で気を揉みました。前夜祭から引き続き御理解頂きました、寛の字の意味。冠は宇宙天地の神様の働き。草冠は自然即ち起きて来る全ての事柄は、全て天地の神様のお働きと見て受けていく。寛大な心という寛の字の修行に取り組ませて頂きます。来年は合楽教会開教十年祭で、さらに立派な盛大なる祭典が奉仕なされる事を思い、何が何でも主人共々参拝させて頂く事を今から念じて参ります。
親先生有り難う御座いました。やはり地元の教会では、この満足感感動は絶対に有り得ません。強情張りのように見えるかも知れませんが、私は合楽以外に参拝する気には、どうしてもなれません。親先生ふつつか者では御座いますが、今後ともよろしくお願い申し上げます。有り難う御座いました。親先生有り難うございました。心の万分の一も言い表せぬもどかしさ。でも一言だけでもお礼が申したくてペンを執りました。では教会の皆様お世話様になりました。10月18日親先生 高松 これは四国の高松さんから。
これも山口の浅野久子さんから。「世界一の親先生。この度は御大祭を頂かせて頂きまして、世の中にこんなに素晴らしい教会があったのかと驚くばかり。荘厳な式典。晴れやかな教会の隅々までぴんと張ったような、良く言い現せないですけれども、隅々までお徳の張った教会に、お引き寄せ頂きまして有り難う御座いました。前夜祭を頂き、富久信会にも出席させて頂きました。親先生が仰って頂きました「滝部の先生を道弾く導くように」。あの時、私滝部の先生を導くためにご縁を頂いたのだ。
私には大きな御用が掛かっているのだと思いました。滝部の先生に「浅野さん、あなたはそんな事をしていると死んでしまう」と言われました。私が信心をやめたのかと思われたのだと思います。私は本気でおかげを頂き、滝部の先生を頂かせて頂きたいと思います。親先生よろしくお願い致します。滝部の教会は家から三分しか掛かりません。合楽教会は5時間30分も掛かります。二日掛かりです。でもこれがたとえ10時間掛かっても、お参えりさせて頂きたいと思います。
合楽示現活動に参画させて頂き、来年の10月の10年祭には家内中揃ってお参りさせて頂くおかげを頂かせて下さい。今日から月末の支払のおかげを頂くよう、本気で商売させて頂き、来月の17日、18日の展示会のおかげを頂くように、一生懸命信心させて頂きます。親先生どうぞよろしくお願い申します。11月10日のお月次祭には是非お引き寄せのおかげを頂かせて下さい。それから毎日の初売りの倍のおかげを頂かせて下さい。合楽教会、親先生様よろしくお願い申します。浅野久子。
皆さんお聞き頂いた通りです。二人とも感動一杯で、しかもその感動がどういう風にこう波紋を生じておるかと二人とも、本当にもう言葉がない。それこそ今のこの浅野さんじゃないけれども一番口に「世界一の親先生」と言っている。川上さんはもう「日本一の御大祭」といっておられます。言葉の表現の仕様がないのです。そして言葉のない、使えないもどかしさというものを感じておられる模様でございます。
しかもお二人とも、今度の10年祭には、家族揃うてお参り、自分一人のお参りから今度はどうでも、家族中でお参りをさして貰わなければ、居られないと言う様なものが、感動と共に沸き起こっておるので御座います。今この最後のところにもね、初売りというのは、必ずお供えになっている。その初売りがどうぞ倍になりますように、一番始めのお供えんとが、100円の時には100円。千円の時には千円。だからそれが倍になるようにと言う様な願い。
そういうものが感動と共に、いよいよ神様にお喜び頂けるような、心の状態が開けてこられたということです。だから感動を頂くなら二人が二人とも山口、または四国と海を渡ってから、お参りをしてきておられます。しかも前の前夜祭からおかげを、二人とも頂いておられます。そういう思いというか打ち込みが、そのまま神様のお喜びであったと言えます。お祭りを頂いた時に、ぱっと感動が許されたのではない。
もうその感動を受けるための下準備というものが、合楽へ合楽へと心を向けておられる、その信心の熱情がね感動を呼んでおります。いや与えられております。許されておられる訳です。ですからその感動のない信仰、宗教というものは、凡そ意味がないというても良いくらいであります。だから感動を頂くために信心の工夫をするというても良い訳であります。そこで今私が思うて居る事、今私が行うておる事。
それをいかに信心であるかないかということを確かめながら、今日はお月次祭だから、ただお参りをするというのではなくて、なら今日のお祭りに会われるためにも、許されるためにも、前々から心に準備というものがなされて、そして合楽へ合楽へと心を向ける事が、そのまま神様へ神様へと心を向ける事になる。それが跳ね返って来る様に、おかげを頂いておられる訳であります。
私はこの二十日の菊栄会の信心実習が御座いましたが、この度は宮崎に行こうと言う事になっておりました。今どきには宮崎にはたくさんな御信者がこの頃でけております。それでその一人一人の、言わばおかげを受けていっておられる、おかげを現しておられる方達の居られるところですから、延岡それから宮崎市と両市の方達が、私が宮崎に行くと言うので、いろいろともうそれこそ細かいところまで、いろいろ準備をして下さって待ち受けておって下さった。
私はもう面食らってしまったんですけれども、今度飛行機で参りました。あちらへ着かせて頂きましたらとにかくもう、あの改札のところですかね、出口のところでずうっと何十名の方達が、しかも正装してから「親先生」というてから、合掌して迎えてくれました。もう本当に感動でした。またあのう迎えて下さる方達も、もうそれこそ涙を浮かべて、感動を現しておられました。そう言う様な事で御座いましたが。
こちらを出がけに、この度は宮崎支部の結成という事を頂いておりましたから、その事を申しましたから、もういよいよその感動は頂点に達するという感じでした。その日の夕方から簡単なホテルで、私の広い部屋に皆んな集まって頂きまして、結成のご祈念それから簡単な結成式をさしてもろうて、支部長副支部長などの決定等もございまして、まぁ宴会に移った訳で御座います。もうあのう百畳敷きが一杯でした。私は後から聞かせて頂いたんですけれども、あのう五千円づつの会席だったそうです。
それに飲み物は持ち込みです。もうそれにも皆んながね、あのう参加しておられるということです。もう一番始めに自己紹介が御座いまして、一人一人一口づつ、そのう合楽でおかげを頂いた、感動的な発表をなさいました。まぁ本当にもう皆さんが素晴らしいおかげを受けておられます。中には初めてあのう例の網さんの、おかげを受けられた話を、銀行の支店長さんが聞かれて、ある難儀な問題で、もちろん金銭の問題で銀行に相談に行かれた時に。
とにかく合楽の金光様という方は、神様は大変な神様げなから、あんたも一遍そこにお参りしなさいと言うて、支店長に導かれてお導きを頂いてから、参ってきたという方が御座いました。えぇっその方は一遍ぎりで御座いましたから、それきりだったと思っておりましたところが、まぁ信心が分からんとは言いながら、もうとにかくそれ以来というものは全部、する事成す事がおかげになって、もうとにかく有り難いおかげばぁっかりを頂いておるという発表をなさいました。初めてお参りをされてそれ以来。
ですから昼は奥さんが出て御用を頂いて、迎えにきて頂いて夜はご主人がその宴会に望んでおられる。と言った様にもう一人一人があの感動、成程あの感動的なおかげというものが宮崎地区に、言わば現れておるということが本当に分かります。感動というものが感動がね生き生きとし、生々しいその感動がおかげを呼ぶんです。今度私はもう一つ今度の宮崎行きの事で、こういう御用があったんだなということは、あのう当時その日宮崎市は、ひっくり返すような大騒ぎでした。
こんな大きな号外が出ましてね。あの自分の継子を、熱い湯の中に浸けてから殺したというお母さん。それがその野田さんという御信者さんが、子供さんが幼稚園の殺された子供さんの友達であった。それをお母さんが幼稚園に来てから泣いて、その殺したお母さんが泣いてから、悔やまれるからね気の毒というので、こちらへお取次ぎを願っておられたんです。
もうそれこそ何んの手掛かりもな、く困り果てておられるところに、私共が参りましたあの二日目の、いよいよそこに寄らんで良いところに、ある御信者さんがここをもう一遍見て下さいと言うので、見せて頂くために車で回り道を致しましたら、丁度あのうお母さんが殺した事が分かって、その実地検証があっておるところでした。もう神様のそのお引き回しというものがね、そして尚また帰ってから電話が掛かってきて驚きましたことはね、それが何んと金光様のご主人は先生だそうです。
お父さんは〇〇教会の教会長自分はそこの長男。それでもお商売の方が面白いからと言うので商売をして、二度目の奥さんを貰って前に子供がある今度もでけた。そしてこの二度目の奥さんが前の子供さんを殺したという訳です。それがあのう帰りまして暫くして電話が掛かって来ましたんですけども、もうそれっこそ感動的なそのうもう感動で一杯で電話が掛かりました。「親先生本当にお取次ぎを頂いて、おかげを頂いてこうしてはっきりと犯人が分かり、死体も自分の家に埋けてあった。台所の下にそれが分かった。
それが親先生方が飛行機で見えるあの飛行機に、そのお父さんという方が福岡から同乗して、本当に私がちょっと変わった恰好しとるもんですからこの方は何か違う。どういう方じゃろうかとようく注目して来られておった。菊栄会の方達が十名で私を取り巻くようにして、手取り足取りなさっておられる様子を見て、はぁこの人はちった偉かつばいのと見よんなさったんです。そして降りた所がそのいわゆる宮崎の方達が、みんな合掌して迎えておられる姿を見て、はぁこの人が評判の言うならば合楽の先生ばいのと思うた。
そしてその時にこりゃ合楽の先生が宮崎入りされたんだから、今日はおかげになると思うたと、野田さんにお話をされた。そしてその夕方からぼちぼち白状し始めて、明くる日は実地検証ということになったんです。もう迷宮入りかと思われるかに見えた。もっと驚く事は夫婦で御本部へ参拝して、金光様のお取次ぎを頂いて、40分間も御理解を頂かれた。自分が殺しとって金光様どうぞよろしくお願いしますと、お願いに参いっちゃる。恐ろしい人がある。
そして東京ですかねテレビに出て、全国の皆さんどうぞよろしくお願いしますと言うて、夫婦で頼のんじゃる。それがねちょうど私共が宮崎入りをしました時に、言うならば一つの感動です。私と飛行機が一緒であった。下りた途端に私が実感したことは、はぁこれはおかげになると思うたと、その宮崎の信者さんに話しておられる事を聞かれて、もう感動一杯で、また電話を掛けてきてお礼がありました。だからその感動と言うものは、そう言う様々なおかげを呼ぶのです。
そこで感動的な信心。生き生きとして喜びが湧いて来る様な信心。そこで喜ぼうとか、感動を受けようとかというただけでは出来ん。その感動はそのまま神様の感動であり、神様の感動がこちらに響き返ってくるのである、ということを分かると神様にいよいよお喜び頂ける心の状態。その事を私はただ今の御祈念のときに頂いておりましたら、あの松茸をいっぱい頂きました。今季節のもんですから。その松茸という信心をさせて頂くところから、感動が起こるということを頂くんです。
松というのは大きな信心。元気な信心ということです。竹というのは素直な信心。例えば朝参りでもね、もう寝むかけん今日は御無礼しょうという位な、には感動は湧かんです。同時にもう馬鹿ほどに純粋な素直な心。そういう心で信心を姿勢を整える、姿勢を作るところから、そして御教えを受けるところから、そしてその御教えを行ずるところから、心の中に感動がへ感動するまいと思うても、感動が起こってくるのです。言うならば神様の喜びがこちらに返ってくるのです。そういう信心をさして頂きたい。
信心にもし感動がなかったら、もうそれは信心、宗教の値打ちはないとさえ言われるくらいですから、感動一杯の信心をさせて貰うて、そして今山口又は四国の川上さんの手紙を今日聞いて頂きましたようにです、とにかく遠方から四国からまたは山口から、合楽の御大祭へ、合楽の御大祭へと思いに思い祈りに祈って、前の前夜祭から頂かせて頂くという、その意欲が神様の感動となって、明くる日爆発的な有り難いものになってきた。そしてこういう言うならば、お礼の手紙ということにもなって来ておる訳です。
自分は感動が湧かん。感動がない。感動のない信心は味気がない。信心頂いておる値打ちがない。信心の値打ちはいつも喜びで一杯である事。この喜びがどこから来るのか、どこから湧いて来るのかと思われるような、感動を心一杯に頂いて日常生活に取り組む。その事が有り難い。先程末永先生がお話しておりますように、感動一杯で御用させてもらうときに、その感動の輪というものは、次から次へと広がっていく。そういうおかげを頂きたいと思いますね。
どうぞ。